見ることのできないもの

『THE ZEN KAI vol.3』、昨日無事に終えることができました。

お越し下さった皆様、出演者の方々、スタッフはじめ河村能楽堂の河村さん以下お手伝い下さった皆さん、ありがとうございました。また陰ながら支えて下さった方たちにもこの場を借りて感謝の意を述べたいと思います。


こういったイベントにはトラブルはつきもの。佐治先生のお話じゃないけど、個々の持つリズムが違う、ということをうっかり忘れて自分の心拍数で相手に迫ってみたり、羽賀和尚の仰るような、今取り組んでいることに対して、もう少し丁寧に、もう少し大切に、という意識の深さが違うことですれ違ったり、で。関わる人数が多ければ多いほどその調整は難しくなり、調整している側だって一定ではないんだから、尚のこと一層。だからこそ面白かったりもするのやけど。

ここでNoと言えばややこしくなるからとりあえずYesと言うとけ、とやった結果、余計にややこしくなる、ということはよくある。Noということに対する罪悪感とか、拒否されることへの恐れから拒否することができないとかってよくあるけど、どこかで乗り越えなければ耐え続けるだけの人生になる。

自ら名乗り出ることに厚かましさを感じたりもするもんやけど、推されて出ることだけを奥床しさと捉えるのは狭量な気がする。


時計がなぜ時計回りなのかといえば、地面に立てた棒に対して動く太陽の影の回転方向を元にして作られたから。時そのものは見ることができず、空間の移動を時だと認識しているだけだということ。

お能の世界では鏡の間=死の世界から橋懸りを経て生者の世界へ、そして死者の側から生者へと語る。こちらからは見えずとも、死者だけではなく、天狗や物怪なども含むあちらからは見えていると考えていた時代。死がもっと身近で死ぬことを通して生きる意味を知る。ちなみに天狗とはサナトクマラ=コーラルのマスター(日本では鞍馬山に降り立ったとされる)。

見えないだけで存在しているなにかと、存在していないのに見ているような錯覚を抱いてるだけのなにか。


佐治先生の時間についての90分間の講演、さすがにお疲れ気味な会場の空気、ここから落語は聞く方もやる方もツラいやろうなと思いつつ、フとしん吉さんを見ると鬼の形相・・・。

正確な時を計る術を人は持ち合わせておらず、個々それぞれの時間が違うというお話で若干終了時間が伸びた先生、舞台袖でしん吉さんに一言、それを受けてのしん吉さんの枕、

「今そこで佐治先生に、時間が伸びてすみません、と言われましたが、これ如何に」。

空間に漂う気を一瞬にして自分のリズムに変える技。

そんな昨日の模様は、本日21:00よりMobileLABO.にて、1週間限定公開になります。それぞれに見所がありますので、長丁場ですが少しずつでもご覧頂けましたら幸いです。ヴォイジャーから送られてきた宇宙空間に響く地球の電波音はお聞き逃しなく。

また収支につきましては後日、新設しましたTHE ZEN KAI H.Pにてお知らせします。

次回は、いよいよというか東北にて番外編を、と考え中です。スペシャルなゲストも交えつつ、スペシャルな空間と時間を創れればと思っています。

また諸々、ご報告致します。


2012年の今年、日本で約1万5千年振りに金環日食金星食金星の太陽面通過が同時に見ることができる非常に稀な年なんだそう(佐治先生談)。

見せないものを観て、聞こえないものを聴く時間、大切にしていきたいと思います。


森田大剛・中野晴隆

THE ZEN KAI スタッフ一同


いよいよ

『A NEW MORNING』展、明日までです。

麻佳と3週間近く一緒に生活したけど、全くストレスなし。不思議。自由な人っていいね。

自由って使い慣らされた言葉ではあるものの、よく捉え所のわからない言葉の1つに思う。自分としては自由とは、自らを由とす、という意味に捉える。孔子のいうところの、「七十にして心の欲する所に従ひて矩を踰えず」。エゴを超えて自らの心を由とす。心の領域というか次元・レイヤーについては、『嫌よ嫌よも好きのうち』に書いた。愛とか今とかも心と同次元にあると思ってる。

ついでに今について。

今、と思った瞬間は既に過去になってる以上、今なんて存在しないのか、未来が今になり続けている以上、今しか存在しないのか。

またもや佐治先生の受け売りやけど、過去の嫌な思い出も今思い返せば、あの時のことがあったからこそ今があると思えたのなら、過去は今によって変化するということ、と。過去できなかったことだからといって今できないとは限らない。未来も今が決めるということは、『実現のさせ方』で書いた。今というのは、過去と未来の間にあるのではなくて、過去と未来、始まりと終わりを含む概念なんじゃないかと思ってる。時間不在の今=ここでしかない。


1年でいろいろと展示会をさせてもらったけど、ブランクはあったにせよ、みんな長い付き合い。そこにはやっぱり縁があるのやと思う。縁をもって繋がれるためには、今をどこに捉えているのか、ということの一致というのもあるんだろうと思う。

頭で未来をシュミレートする。未来は未だ来ていない以上想像するしかなくて、しかもその基となるデータは記憶という過去。今未来を考えてるつもりが、過去に由来してる以上、過ごした時間は過去の中、ということになる。過去にいた以上、今にもここにもいなかったってこと。

そんな話が阿吽(あうん)の呼吸でできる人たち。言葉の外側の世界を丁寧に紡ぐ、同様にそれを丁寧に感じ取るというコミュニケーション。あ=始まり、ん=終わり、の意味もある。始まりと終わり、過去と未来、最小と最大、の外側。

あらゆるものは変化する。その事実は変化しない。過去と未来は変化し、今は変化しない。


そんな時間についての謎の解明をして下さる佐治晴夫先生、問題作を携えての大石将紀のSax、まだどの噺にするか迷い中の桂しん吉師匠、羽賀和尚率いる花園禅塾の読経、我らがEGO-WRAPPIN'、そんなイベントに快く会場としてお貸し下さった河村能楽堂の河村純子さんによるお能おもしろ話と盛り沢山の『THE ZEN KAI vol.3』、お陰様でチケット完売となりました。ご予約下さった皆様、いよいよ来週です。お楽しみに。


更にいよいよ、加賀温泉郷・山代が面白くなります。6月には、


べんがらやさんのギャラリーにて『揺らぎの刺繍in山代』展



葉渡莉さんのエントランスにて『梅干し』展


が同時開催。

そしていよいよ9月には!追々ご報告します。


目には青葉 山ほととぎす 初がつお

いよいよ春も本番。


Sol


上から目線

Hygge=ヒュッゲとは、デンマーク語で「人と人とのふれあいから生まれる、温かな居心地のよい雰囲気」という意味らしい。そんな名を持つカフェが、京都・島原(JR丹波口駅)にオープン。

主は小林久也・早哉香夫妻。お店を始めるにあたって入籍も。あれもこれもホヤホヤ。2人にはあきる野時代に出会った。あきる野に生誕で現在に至るの2人、とはいえ一応東京都なわけで。初対面は福生のエスニックレストランにて。ダンナがバイトしてて後からワシが入ったカタチ、当時はヨメではなかった現ヨメもよく客で遊びに来てたという感じ。

あきる野生活も終わりの頃、実家に帰る前に、3年間離れてた組織で働くということを思い出しとこと思ったのと、人からお給料をもらうという、しかも時給でというのを改めて味わっておこうと思ったのとで、友人に頼んで都合つけてもらって、の先がそのお店。

バイトでありながら店長代理な小林ダンナ、少々物言いが上から。ふーん。よく上からと言われるワシが感じるんやもん、当時の周りの人たちも感じてたに違いない。けど今となっては「Hygge!」とか言うてるくらいなので見る影もなく。お店に入った時、2009年夏、ワシが35歳でダンナ30歳。下に見られたもんである。ま、ワシも自分が誰かは言ってなかったし。シレーっと仕事を教わりながら覚えながら。2週間くらいしてのお昼休憩の際になんかの話の流れからブログの話になってそこから上へ下への大騒ぎ。

それからはお店がなぜ売上げが下がっているのかについて、具体的な指摘とその対策、その根拠について話し、それをやってみた、頼まれてもないけど。難しく書いてみたけど、掃除のこと。及び整理整頓。いわゆる表面上の掃除は毎晩やるので、表面上の清潔は保たれてる。アカンお店はそれすらできてないけど。このお店に関していえば、書けないボールペンがいっぱいとか、かつてもこの先も使うことがないであろうノベルティグッズの山とか、ダスター(布巾)の汚さとか、あれを使うにはこれをどかさないことには使えないというようなものの配置とか、とにかく見えない部分がグチャグチャ。本部に確認していらんもん全部捨てて、キッチンのレイアウト変えたった。案の定、売上げは上がる。いらないもので満たされた器に新しいものは入らない。当たり前の話。


自分がしたいと思う生き方に気付いてはいたけど、出てくるのは勇気ではなく愚痴でしかなかったダンナ、1年後には1人でヨーロッパに飛び立ち、2011.3.10関空に到着してその足で京都へ、3.11東京へ戻る。今思えばよく帰れたよね。品川か東京かからあきる野への足がないと都心で1泊したんやっけ?ヨメは結構大胆で1人であっちこっち行ってる。雑誌『TRANSIT』の愛読者、モロッコ特集の亜里子の写真見てそこに行きたくなって行った、みたいな浅田美代子似。尾張屋でヨメと亜里子の初対面、同じ空間を味わった者同士のそこへの思いを馳せる遠い目の奥で、繋がってた。

昨秋、京都でカフェをオープン!という可能性にも気付いてしまったらしく、いきなり京での物件探しをすると言い出す。ふーん。自分で調べて候補割り出して試算もしてた。そういうことなら、と秘蔵の島原を御開帳してみました。ポテンシャルの高い物件は、本気の人に扱って欲しい。なぜこれをそうしてしまうのか・・・トホホ、は見たくない。


画像は、壁の一部。うちの壁もお客さんによっては絵に見えると言われる。絵でしかない。人が描いたものだけが絵ではないと思う。一昨日、女優のMさんが来られた。もう少し背中に羽が生えた系かと思ってたけど、肚据わってた。絵の話からものの順序の話になって、歌舞伎やもん、傾いてなんぼの世界に世間の常識を求めてどうすると。海老蔵もっといけと。同様にチョンマゲ浴衣の相撲取りに普通求めてどうすると。その格好で1ヶ月過ごしてみたらちょっとは考え方変わるかも。有名だからいいのではなく、いいから有名になったわけで、等々。面白い人は言うことがマトモ。

Hyggeの壁の絵。絵とは、ある情趣を感じさせるありさま・光景という意味もあるらしい。旅の途中、デンマークにも立ち寄って、A.C.PERCH'Sの本店で目の前でブレンドしてもらったらしい。お土産にはロイヤルコペンハーゲンのお茶をもらった。島原の江戸末か明治初期から現在までの変遷と、デンマークを香り高いお茶から俯瞰してみる時間。見上げるのもいいけど、見下すのではなく、見下げるのもいいと思います。


Sol


実現のさせ方

こないだ羽賀和尚からお願いごとをされた。内容としてはそんなに難しいことではないけど、かといってカタチにするには障害が多い。スケジュール的にもかなりタイト。さてどうする。

もう話は決まってる。

やる。

やる上で実現させるために必要な要素を洗い出す。

どうすればできるか、ではない。

やるにあたってどうするのか。

希望ではなく、やると決めること。

希望とは、希な望みと書く以上、実現の可能性は低い、とみて間違いないと思うけど。

今、この瞬間において、決める、ということ。

どうすればできるのか、という考え方は、決断を先に延ばしにしているに過ぎない。


もう少し詳しく。

例えば100m走の場合、あなたはここからあそこのゴールまで走るのです、と決められているから、そこに向かって走り出し完走したのです。

他人の定めたスタート地点から始めて、他人の定めたコースを走り、他人が定めたゴールを目指す。

そこに正否善悪は問わない。

ただ、自分が実現したいことの場合にも、それ前提で考えるから話がおかしくなる。

主語が他人の文章なんだから、全て自分を主語に置き換えなきゃならない。

自分が定めたスタート地点から始め、自分の選んだコースを走り、自分の決めたゴールを目指す。

この例に当てはめて雑誌を作ると解いてみる。

雑誌を作りたいと思う。そこをゴールとする。

先ずはいつ始めるのか。

そのゴールへ辿り着く道、

・タイトル・コンセプト・デザイン・カメラマン等々

・サイズ・紙質・ページ数・どちら開きか等々

・部数・単価・経費・協賛等々

を経て、

ゴール!

に至るわけで。

今抱いてる想像の中でも、創造の過程においても、その細かい諸々を決めるのは言うまでもなく、自分。

往々にして、自分がゴールを決めるけどスタートが決めれなかったり、ゴールの素晴らしさは説くけど全くコースが見えてなかったりするもの。

よくある成功法則本に、

『実現したいイメージを具体的にすること』

なんて書いてあって、なんのこっちゃと思ってたけど。

具体的に出来ないからこそ実現させれてないだけで。


あきる野の家は、というかあきる野暮らしは自分にとってはかなり大きな賭けやった。今思うとホンマに日々気分が悪かった、3年間。自分が間違っているという観念との闘い。自分が観じているものが世間では切り捨てられているという違和感。それを美とか華とか遊びとか無駄とか呼ぶのだと思う。

あきる野のあの家に出会う前、当時の吉祥寺の家からまだ見てない次の家に対して紙に書き出した。今も残ってる。

・家賃10万以内

・4LDK

・都内まで2時間(電車・車問わず)

・庭に桜の木があって犬がいる

・海の近くor見える

・和室1室

等々。


実際、

・家賃9万

・4LDK

・都内まで車で1時間

・庭にはソメイヨシノではなく、サクランボがなる木、実は全部鳥にやられた。カルム。

・川の側

・和室1室


途中で海は違うかも?山と川?と思ったって経緯はあるにせよ。

別に凄いことでもなくて、探しただけで。徹底してみた。

とはいえ、そんなに探しまわって何年も掛けたわけでもない。2ヶ月。

物件運がいいって言われることがあるけど、そんな運ってあんの?知らんけど。

で、なんか気付けば京都にいてた。

スルッと流れ辿り着いた、けど、変な話、室町時代に臨済宗の僧として妙心寺にいたような気がしてる。尾張屋が尾張から京へまかり越した頃、とか思ったりしてしまうくらい、馴染む。周りがどない思ってはるのかは知らんけど。

でもあきる野の家も、加西の家も、良かった。

いろいろ気付いた。

建築家が自分の住むために建てた家たち。

吉祥寺の家もそう。

そういう家は、やっぱり使われてる素材も自然で質のいいものが多い。

光の採り入れ方、風の道、動線、キッチンの作り、トイレやお風呂の使い心地、ディテールまで行き届いてる。

もちろん大家さんの人柄もいい。

そんな空間で過ごすことも、人を健やかにさせる。

空間は、住んでみて、過ごしてみて、初めてわかる。何事においてもやけど。

Solのオープニングで東京から来てくれたJ(歳下やけど師匠と呼びたいくらいな友人)が、アナタの本気を見たわ、と言ってくれてうれしかった。

お寺や教会や美術館に漂う静けさは、宗教やの価値高いとされているものやのが収められているからってだけでもない気がする。

名宿名ホテルに流れる心地良さは、単に高い料金を払ったっていう優越感だけではないはずで。

それを掴んだなんていう気はないけど、空間と時間はイコール、いずれを扱うかの話かなという、程度。


出来る出来ないの話をしても仕方ない。

出来たいわけなら、出来ないことを考えても仕方ない。

出来たい?変な日本語。

多分それを成る、と呼ぶんだと思う。

成せば成る。

うちの祖父がよく口にしてた言葉。

「出来ると思ったら出来る。出来ひんと思ったら出来ひん」。

お寺と焼き物をこよなく愛す人でした。


Sol


受け入れるということ

全てを受け入れること。

飲み込めなくて苦しんだ言葉。


みんなと仲良くする、という言葉にも似てる。

それは、みんなと仲良くしなければならない、という意味なのか、みんなと仲良くする努力をする、という意味なのか。

仲良くする=喧嘩をしない、波風を立てない?

ワシの場合、仲良い人ほど、喧嘩というが波風立ちまくる。亜里子のママは、ワシと亜里子との結構激しい言い合いを見て、アンタら仲ええなぁ〜と言わはる。実際、仲が良い。

違うからこそ、その違いがなんなのかを知りたい。その上で、折り合いがつく部分を探りたい。


人に迷惑を掛けてはいけない、という言葉にも似てる。

掛けてはいけないということはわかるけど、かといって掛けずになんて生きていくことはできない。

インドでは、「人に迷惑を掛けずに生きていくことなんてできないのだから、迷惑を掛けられたら許しなさい」と教育するらしい。さすが0を発見した国。

人に迷惑を掛けることを肯定しているわけではない。ただ良かれと思ってやったことが、結果迷惑でしかなかった、なんてことはよくある話で。

他人に迷惑を掛けてはいけない=自分は迷惑を掛けていない=掛けられるとムカつく。


全てを受け入れるとは、相手の全てを受け入れる、という意味ではないと思う。

当然、相手より全ての方が大きいわけで、ということは、相手の、ではなくて、相手を含む全てを、受け入れるということ。

そもそも、相手の全ては受け入れることができない。そもそも違うんだから。理解し合えない部分があって当たり前。

彼のお気に入りの、自分にとっては超〜辛口カレーも受け入れる?

彼が暴力振るうけど受け入れる?

きっとそうではなくて、受け入れることができないこともある、という事実を受け入れること、が大事なのだと思う。


(自分が)相手を受け入れ続けるのであれば、相手は(自分に)与え続ける必要があるってこと。=共依存、色はオレンジ。

要は、ここまで許したんだから、その分だけは与えてよねってことが成り立つってこと。逆に言えば、これだけ与えたんだから、その分受け入れてよねてこと。権利義務=契約。

きっとそうではなく、相手と自分とが、譲り合い、分かち合い、補い合い、協力し合うこと。=相互依存、色はコーラル。


思い描いてる普通も、いわゆる安定も、願い続けてる恐怖心が消える瞬間も、同じ時も同じものも同じ人も、存在しない。

あらゆるものは変化する。

そういう意味では最終的な勝利なんてものもない。

先ずはその事実を受け入れること。


Sol


変わること・変わらないこと

癌細胞ってどっかから紛れ込んだものではなく、自分の細胞の悪性変異、ということは、癌細胞の良性変異、つまり、戻る、治ることもあり得る?


地球を1mとしたら、地表は5mmしかない、とは前回のTHE ZEN KAIでの佐治先生のお話。
5mmの下はマグマが対流。その上に浮かぶ地層、その表面に自分達はいる。
そもそもが不安定。

その上で頑張って安定を築こうとしても、土台無理。

存在しない安定を築こうとして、地球の資源や環境をしたい放題した結果が今なわけで、地表に住むいわば細胞の自分達が悪性化=癌細胞化している、ということになってるのかも。 
人間ならガンを放射能で殺し、切って捨てる。

日本人は放射能に汚染され、切って捨てられようとしてる、って極論?


奪う生き方をやめること。

自分がより多く持とうとすることをやめること。

なにかにしがみつくことをやめること。

怖いからこそやってみること。

痛いからこそ味わってみること。

捨てれないからこそ捨ててみること。


今が癌細胞であるのなら、逆をやってみることで良性化するのではないかと思う。

Sol


偏見との闘い

勝手に入ったスイッチは、切り方もよくわかってない。勝手に切れることがあるのか、このまま継続するのかわからんけど、とにかくまだスイッチは入りっぱなしなので、突き進むことにする。

なんのスイッチか。書いてしまう、勝手に紡がれる言葉。

『能動的な自信』というネタから連チャンなわけやけど、基本同じテーマについてあっちからとかこっちからとか書いてて、そのうちあっちで書けば理解が及び、こっちはあまり理解されずってのがあるということがなんとなくわかってきた。なので今回はあっちで書いてみる。


ある友人は漠然とながら将来に夢を抱いてる。その漠然とした夢は、将来実現させたい。ま、よくある話。その漠然とした将来の夢の内容を、具体的に突っ込みながら聞けば聞くほど、今すぐできるよね、とこっちは思う。なぜやらないのか。

お金がないから。

だからできない。

(貯めるとかの選択肢はないとした上で)じゃどこかから借りれば?

それは嫌らしい。

なぜ嫌なのか。

自分には返せないかもしれないという不安=自分には返せるだけの力がない、という信念。

その根拠は?

ない。

なぜ根拠がないのに、返せないと決めつけることができるのか。

そもそも、借金したことがあるんですか?と問う。

ないにも関わらず返せないとはこれ如何に。

それを偏見という。

借金=ネガティブなイメージがあると思う。で、実際、借金はネガティブなことなのか。

借りる側がいれば、貸す側もいる。

では貸す側はポジティブなのか?

少し戻って、もし自分が金融機関なり知人なりから借金をしようとする。まぁ100億貸して欲しいと言うたところで通らない。せいぜい1,000万、いいとこ500万ってとこかと。所詮返せるであろう額しか借りれない。返せるであろうものですら返すことができないってことは、必要ないものに使っている、ということになると思う。

借りて返さないということがネガティブなのであって、借金がネガティブなのではない。

ただし、借り方にはいろいろある。利子とは、高速道路を閉鎖して通りたければ金払え、と言っているようなもの、となにかで読んだ。ユダヤ教もイスラム教もキリスト教も利子を取ることを禁じているとそれもなにかで読んだ。ただし、その宗教徒においては、というエクスキューズがつく。だから成り立ってるだけで。お金と時間については『モモ(ミヒャエル・エンデ)』が面白い。子供向け、大人必読。

以前の『1の反対』の中で、「1の反対は0ではく、-1」ということを書いたけど、往々にして1の反対を0だと捉えてる人が多い。前出をここにのせると、1の反対が0だとしたら、貯金と利益しか存在しないことになる。なにかが増えるということは、なにかが減るということ。逆にいえば、一方が貯め込んでいるからこそ、他方では不足が生じる。格差。

そういう意味で、マイナスというものは必要になる。マイナスも別にネガティブでもなんでもない、けど、なんだかネガティブなイメージ。

並列でみれば、捨てるも同じ。捨てれないという人は多いけど、いろんな理由はあるにせよ、もしかしたら今後使うかも?その時に後悔したくないし、ってなところなんじゃないかと思うけど、まぁ3年後も結局1度も使わずに同じことを繰り返す。ものに付帯する思い出に浸る時間があってもいい。でもそれ以上に新たな思い出を今、創ること。


別の友人は将来自分名義で雑誌を創りたいと言う。

なので聞いた。

自分でプライドは高い方やと思う?そうでもない?と。

答えは、プライドはないというか、低いと思います。

更に聞く。ここでいうプライドとは?

自己顕示欲と。

本来のプライドとは誇り。

自分に対する誇り、日本という国に残る文化への誇り。

ワシの場合、そういう意味でのプライドは高い。

今いわれる自己顕示欲的なプライドは、かつてバリバリにあったけど、今はどーでもいい。

雑誌と関係ないやんと思う?

彼の場合、伝えたいことがあるために雑誌形態をとって世間に投げ掛ける、と言ったのではない。

自分名義の雑誌を創りたいと言う。

だから聞く。コンテンツは?

もし今目の前に2,000万用意した、好きに使っていいから雑誌1冊創ってみ?と言われたら、どんな雑誌創るの?と聞いたら、返答なし。

プライドの意味もわからず、自分の自己顕示欲がものすごく高いというか、それしかないくらいであるにも関わらず低いと言う。

これを偏見という。


あらゆる差別の因は偏見。偏った見方。

世間から、社会から、世界から、差別を無くしたい。若い頃の夢。

でもそんなことは無理なのかもしれない、今の思い。

でも諦める気はない。

だから先ずは自分自身の偏見を取り除くことから始めようと思った。


養老孟司氏が講演で自分とは何か、とすばらしくわかりやすい例で仰った。

カーナビゲーションシステムがあるとします。その中で最重要の機能はなんでしょうか?要するにカーナビで地図を見るのに一番重要なものはなにか。

答えは、現在地(を示す矢印)。

自分とは、その矢印のことです、と。

世界があって、今ここを表す矢印及びその内側が自分。

例えば病院で滅菌消毒されたシャーレに唾を吐く。検査をしてどうぞ元にお戻し下さい、と言われても、汚いと思ってしまうのが常。子供は言う。なぜお口の中の唾はキレイなのに、お外に出したら汚くなるの?

それが自分であると。

みなさん、よく覚えて帰って下さい。自分は自分に依怙贔屓してるもんなんです、と。

自分を特別視している=自分に偏って見てるわけで。

自分は善人である、自分は普通である。

軽くウソをついたことがあるけどそのくらいは許されるであろうから善人。

中肉中背成績中間平均所得一般的生活=普通。

だから差別はいけませんなんて軽々しくも言えるんだと思う。

少なからずワシにはそんな恥ずかしいことは言えない。

してしまってるよね、だから気付いていかないとね、と思う。

だから気付けた、偏見の大元についてあーでもないこーでもないと書き続けているわけで。


ここまでくれば、なんであんなにカレーは辛いですか?ということがおかしな話やと言い続けてたことの意味がご理解頂けたんじゃなかろうかと思いますが、今となっては辛いですと答えることにしてます。

わからんもん。

まぁ食うてみ、と。それに更に辛そうな真っ赤のライムのピクルス混ぜてみ、と。

驚くから。

暑い国の人は辛いものに対する感覚が繊細な気がする。

ライムを唐辛子とスパイスとオイルで漬けるなんてセンス良過ぎ。

オモロいなと思ってる人は大概驚いてくれる。

なんのことない、烏丸御池下ルYAMAYAさんで売ってます。

気が向いたら自分でも作ってみる。


なんかものの仕入れ先とか、どこの調味料使ってるとか、家具はどうしたとか、諸々お知りになりたい方は店頭にて聞いて下さい。野菜に関しては都度都度なので把握しきれてませんが、美山とか滋賀とかそんな感じ。こちょっとやられるのってやっぱり気分が良くないしね。紹介すればいずれもメリットが生じるのにっていつも思う。うちも紹介したことでそこさんと信用が増すし、もちろんそこさんも売上げが増えるし、紹介した先もうちの卸値で通る。三方両得。

加えて、いいものが拡がることはいいことだと思う。

ホンマにその添加物は大丈夫なの?とか思いつつ使うからストレスなわけで。ストレスは万病の因。

誰がどこでどのようにして作っているのか。

通常発酵には最低このくらいの時間が掛かる、というところを人工的に早めて造られた発酵食品。微妙やと思うけど。CMで流れてるそれを大型スーパーの安売りで買う。その先なんだか調子が悪くなって病院にいったらお会計でギョッとする治療費を払う。ま、トータル赤字やろな。アメリカの金融機関のトップは保険会社。この意味わからないと。ま、そんなことは永くは続かないやろうけど。

少々高くても、ちゃんとものを作ってくれてはる人を応援したいと思う。そんな人たちのものをお客さんにも提供したいと思う。前例でいけば、なにも高くない。本当の意味で普通に食べて普通に生活すれば、そんなに医者にも行かず、ということは健康保険料も安く、となっていく気がする。

世界No.1のハンバーガーチェーンのトップは家族には自社の商品は食べさせないらしい。好きにすればいいけど。

法を犯さないとした上で、買う自由も買わない自由も売る自由も売らない自由もある。

ちゃんと買ってちゃんと売りたい。


養老節再開。

矢印が溶けることがあるらしい。

キノコだとハッキリ仰った。時に宗教体験に同義とも。

スティーブ・ジョブスはどっかの大学の講義で、Lをやったことがあるか?と聞いたとなにかで読んだ。今自分が知覚している自分の外側の世界を感じることができる、らしい。深層心理学の世界では、自分とは2人いるとのこと。自分だと思っている自分と、その外側にいる自分。彼は禅を理解?というのか禅的な人だと思う。

そして、その矢印が溶けた際、ジョブスでいうところの外側の世界が、ナビの画面に映っている地図全体。全体を自分とチャネルすること。

矢印であるところの私が溶ける、解ける、説ける。変換上から3つ、全部当てはまる。

キノコなのか、Lなのか、禅なのか、瞑想なのか、ヨガなのか、マクロビオティックなのか、神道なのか、道教なのか、SMなのか、プロやオリンピックレベルでのスポーツなのか、カルタクイーンなのか、研究を突き詰めることなのか。

極める。

それが昨日の『限界を超える』なわけで。


自分を特別扱いしてるから、肩の荷が重い。

自分の出したものを汚いと思う人がいる一方、他人の出したものを喜ぶ人がいる。

どちらが正しいのかなんて、判断できない。

自分の出したものなら平気で他人の出したものは嫌って人もいるやろうし。

下品ですみません?

そもそも下品と上品の区分はどこにあるのか。

自分のしたことに対して正直にあれる人に品性を思う。きっと生き方がそれを物語る、それを多くの口が伝える。やや強引。


そもそも、偏見を持つ・持たないも、自由。

ただ、持ったら持ったで、肩凝るよ?という話。

単なる依怙贔屓でしかない、今でいうところのプライド、自己顕示欲という自分。

そんなもん必要かね?というのが、お釈迦様の仰るところかと。


Sol


限界を超える

またまたフラッと画伯。また絶景を垣間見せてくれた。話に引きずり込んで爆笑させてくれる術は他でも活かして欲しい、けど絶対に嫌らしい。画伯らしい。


画伯が30歳くらいの時、1970年代の頃、渋谷に面白い競馬の予想屋がいたらしい。黒山の人だかりの中、口上が始まる。

「ざっと見たところ君らはサラリーマンのようやが、2-3万の小遣いを5万に増やそうという競馬なわけやな?新聞読んで予想屋参考にして◎本命○対抗から流して確実に増やそう、というね。それを『本命取り』という。ただね、それがコケた時には、こうなる」

と実際に書いて見せるそう。本命がコケたということは、

『命取り』。

重要な示唆は、新聞を読めば絶対にトータルでは勝てんということ。別に新聞が嘘を書くわけではないけど、予想に前回のレースで3ハロンから左に縒れた(左にバタバタと失速しつつ流れて行く)なんて書かれてたら先ずは買わない。というかそんなもの買えない。かといってそんな馬が大穴で万馬券、なんて生み出す。データ主義で間違いないという道を選んだつもりが、コケたら最後、命取りな人生。画伯曰く、パっと開いた辞書がP48だったから4-8を買うとかの方が結局は当たったりすると。

で、その後予想屋と仲良くなった画伯、今月いくらの金がなかったら困る?と聞かれ、当時でいう10万と答えたところ、ではその5倍、確実なレースに賭けてみろと。血統からなにから徹底的に調べた上でやってみ?と。一体どんな気分がするものか。で画伯、その勝負を借金してまでやってみたらしい。50万1点買い。ゲートが開いてスタート、最初は調子良かったと。それが段々と首を上に向けてられなくなり、その内に立ってられなくなり、ゴールの瞬間はもう気っ分悪くてうずくまってて見てないと。結果勝ったそうやけど、全然嬉しくなかったと。負けてもいいと肚括って臨んだにも関わらず、その体たらく。

その足で予想屋のとこへ行って報告、どうやった?の問いに、勝つには勝ったけど、具合悪くなった・・・と答えたところ、そうだと。そんなもんだと。具合悪くなるもんだと。一度は味わっておいた方がいいと。

画伯、大勝負は体に悪いと。お前も1回やってみ?と。まぁやらんでもいいけど、そんなもんやということは知っとけ、と。

実際、年末の有馬記念ではぶっ倒れてる人がいてると。あーやりおったなと。倒れてるのは負けたからではなくて、レースの途中から調子悪くなって勝ってるにも関わらず倒れてるヤツもいてるんちゃうかと。年末の支払いが2,000万、今手元に500万、あとの1,500万算段つかず、有馬記念で一発大勝負。勝てば年越せ負ければ地獄。

競馬は全くやらないけど、競馬とはなにかは、宮本輝氏『優駿』によって知った。有馬の大勝負の下り、血統についてや騎手の心理戦等、競馬に興味なくても、競馬の魅力についてよくよくわかる。もちろん話としても面白い。映画ではなく、原作をオススメします。


麻雀での大勝負。その年代における余裕を持って遊べるレートがあったとして、例えば一晩3万の範囲での勝負、負けても痛いけど、まぁいいかという。そのレベルでありながら一晩で100万動く勝負をやってみ?と。全然アカンで、と。普段なら、七対子にいくのか、トイトイや三暗刻の可能性も、と冷静に、更にツモによって展開させていくという風に打っているにも関わらず、レートが上がった途端、もう真っ白、意味なくポンして、もうトイトイにしか持っていきようがなく、気付けば全部晒して手配は2枚、周りはリーチで切るに切れず、仮に上がってもトイトイのみ。なにをやってるのかと。通常のレートの際に、勝負!と危険牌を切る。度胸あるよねとなるけど、そんなもんは度胸でもなんでもないと。これ切って当たられたら取り返しつかないというところで勝負ができるか。オレは無理やったなと。手の平汗でビシャビシャやし、楽しいこともなんともないと。大勝負で勝つ!というのが快感だと思ってるのは、やったことない人間の単なる妄想なのかもしれん。

100億持ってる人にとっての1,000万の勝負なんて金額が大きいだけで大勝負でもなんでもない。そんな桁違いの世界のここだけの話も聞かせてもらったけど、そこだけの話ってことで。


例えばSMでMに興味があったとする。縛られてる姿見て興奮。そんな風にされてみたいと妄想。ならやってみ、と。そんなに思ってるほど楽なもんじゃないよ?みたいな。そもそもMだといいながら、それやって欲しい、これやって欲しいなんておかしな話でね。Mなんでしょ?と。なにを要求してるねんと。逆説的にいえば、人にこうして欲しいという欲求を持ってるからこそ、Mなんですよ、と。だって、こんなこと言うと、下品と思われるかな、変態と思われるかなと常々思ってるから自分の欲求をストレートに言うことができないわけで、だからそれを強制されることで口に出来る。酒を飲んで口説くのと大差ない。


人前で喋るなんて絶対無理と根拠なく信じてた。昔、FM東京の生に出させてもらった時、頭真っ白、最っ悪な思いをしてもう二度とゴメンと思ったのやけど、一応長男やし〜いずれ親父の葬儀の挨拶もあるし〜とえらいとこからも引っ張り出して、越えるべき壁、とKBSで毎月、それこそ(森谷威夫の)お世話になります!なわけやけど、決してナメてるわけではなく、起き抜けにそのまま飛び込む、くらい余裕が持ててたりする。事前になに喋ろうとか一切考えてない。そら相手があってのことやし、向こうは喋りのプロ(笑うことのプロでもある)やし、ってのもあるけど。

それこそ昔、人前で余裕で話すことができる人に、うらやましいと言ったら、違うで?と言われてなにがですの?となったのやけど、慣れやと。人前で緊張するのは当たり前のこと。慣れるしかない。と言われて、そっかと思った。ようやく慣れてきたんやろうと思う。人前で話すことに抵抗がなくなるほど慣れた頃にはきっと、人目なんて気にしない、ということにも慣れてるはず。


大勝負、SM、注目を浴びること。

そんなものに魅力と魔力を感じるということは、その分野に快感と興奮と恐怖と不安がないまぜになった感情を持っているということ。良いも悪いも善悪もない。このトラウマは過去世に由来するんではないかと最近思っているのやけど、その辺のことはまた別の機会に書くとして、往々にして人は中毒的にハマってしまうなにがしかを持ってしまっているものではいのかと思う。それだからこそ、その後抜けれなくなるかもしれないという思いや未知に対する不安があるのやろうけど、だからこそやってみること。そんな偏ったことでもなく、ま、恋愛で誰しもそんな思いは経験するのやろうけど。

本当に痛い目を見て、大恥かいて初めて、本当の意味での適当ということを思い知る。そういう意味でいえば出し尽くしたつもりでも、出し尽くしてなんかない。もう無理と思ってることを半強制的にでも超えることで出し尽くすどころか自分が自分でなくなることを味わうわけで、その結果、驚くようなギフトが目の前に現れたりもする。


人目が気になってるということは、それを気に出来る余裕があるということ。その時点で出し尽くしてることにはならない。そんなことを気にしてるということは、確実に100%の集中はあり得ないわけで。見られて興奮する、なんて言うてられるものはSMではない。それは恋愛の延長、アブノーマルなセックスに過ぎない。見られて興奮する、なんて余裕すらぶっ飛ばしたところにSMは成り立つのであって。


わかっているからこそ余力をもって取り組めるだけの話。限界を知るには、わからない領域に踏み込めるかどうか。その結果、限界だと思っていたものが限界ではなくなり、本当の限界を知ることができる。

勝つためには先ずは自分の分を知ること。


Sol


本日OPEN

さっきこの本を作られたという、



ブリュッセル在住の、Tatsuro Mikiさんという方がお越しになられた。

この本は、大原で庭師をされてる比地黒さんという方に教えてもらった。

いろんな縁がある。


ワビサビと言葉にしてしまうのは簡単ではあるけど、それは定家和歌十体の一形態であって、ワビサビ=幽玄体ってことで、縄文や江戸文化や芭蕉の句などの拉鬼体等々がありとかなんとか。そのへんのことは『独特老人』伊福部昭氏に詳しい。

モダンとかも含めたあらゆる形態を参考にして、判断ではなく同列において、今必要としている要素を持つものをチョイスする。で、このAxel Vervoordtと共に作られた本、圧倒的に静か。幽玄体で表現されただけで、メキシコで育まれたバラガンの静けさにも通じる。いわゆるZENとは違う。枯山水もいいけど。


目先の5年か50年か100年か。500年前の文化を理解する、1,000年前の思想を学ぶ、2,000年前の宗教を信じる、1万年前の生活に思いを馳せる、38億年前の生物の誕生を知る、45億年前の地球の誕生に同調する。150億年前の宇宙の創成以前がなんだったかのを考えてみる。

一言で通じる相手。これをご縁に未訪の地へ行くのもいい。


5歳の時には1年を5回しか味わってないから、1/5。
30歳の時には1年を30回味わってるから、1/30。
分数苦手ですか?
歳をとれば、年月の経つのを早く感じるのは気のせいなのか気のせいではないのか。
幼い時は明日が待ち遠しくて仕方なかったのに、もう朝かよ・・・な日々。

石油とは、3万年かけて動植物の死骸が化石化した後に液体化したものらしい。

それをたった100年かそこらで使い尽くそうとする、のは計算が合わない。

せめてできるに掛かった時間は掛けて使うべきであったところ。

三十三間堂の二十八部集は鎌倉仏師によるもの。

ミケランジェロの200年前。

奈良にも凄いものがある。

静けさを生み出すための空間構成とは如何に。


そんな静けさを持つ空間がまた1つ京都にOpen。

『Hygge(ヒュッゲ』
JR丹波口から徒歩3分。
島原大門より30秒。

詳しい場所は、角屋、輪違屋、きんせ旅館なんかを散策してたら、あ!となります。

ならなければ仕方ないのかもしれません。

是非。


Sol


一切は空理空論

そういや毎日ブログ書いてた時期がある。書かなければならないという勝手な使命感で。今は・・・ついつい書いてしまう。オナニーのし過ぎってヤツ。


うちの親父は気難しい人、だと多くの人に思われている気がする。そう思っている人は多いし、そう思ってた。方や親父の友人たちは親父を気楽なヤツだという。気を難しく感じるのか、楽に感じるのかの違い。多分、本人は同じ。見てる側の見てるとこが違うだけ。

そのうちの親父がどっかのお寺でお坊さんに『空』とはなにかと聞いたらしい。

例えば、尿検査で使ったグラスがあったとする。それを丁寧に洗って煮沸した後にお水を注ぎました。その水が飲めますか?と。その一部始終を知っているから飲めないのであって、単にグラスに注がれた水なら飲むでしょ、と。知ってても知らなかったことにすればいい。

それが『空』である。と仰ったそう。

実話か作話かわからんけど、今でも自分の中に残ってる。親父はちょいちょい忘れて何年も経ってからその話をしたら、あーあれはワシが作った話、と涼しい顔をして言う。

10代の終わり、バブルが弾けた頃、不良債権とは何かと親父が説いた。それ以前より強制的に土地の値段を下げるようなことはやってはならんとよく口にしてはいた。資本主義の資本は地球に依拠する。地下資源であり、レアアースであり、空気であり水であり土であり、表面の人が住まう土地そのものであり。元々は誰のものでもない。その土地を担保に金を借りて事業をしているにも関わらず、それが半値になったとしたら、担保価値も下がるわけで、結果資金繰りが滞る。つーか会社資産がそのものも結構目減りする。

サラリーマンもマイホーム!なスローガンで、そら皆プライベートな住まいを持つのはいいことやけど(とはいえ、四角四面の人工の箱は肉体的にも精神的にも健康を損なうと思う説は他でも書いた)、そのサラリーマンの給料は会社から支払われる。その支払う元がグラついたらマイホームもクソもない。

消費者目線というけど、消費だけで生きてられるような結構なご身分はそういないと思う。つーか無理。生きてるということは、息するだけでエネルギーが掛かる。食うてるわけで。それを得るにはなにがしかの交換するもの、もしくはその手段であるお金を作るか手に入れる必要がある。

消費者でありつつ、生産者か販売者かでもあるということ。買い手であると同時に売り手でもある。

にも関わらすお客様は神様ともてはやし、安い方がいいと突き進んできた結果、売り手である自分の首を絞めていた、となってるのがデフレってやつだと思う。

安くしなければ売れないものは、所詮安くした値段の価値でしかないってことで。価値とはなにか。


お金を作るとも敢えて書いたけど、アメリカは日々ガンガンドルを刷っている。1973年ニクソンが金本位をやめた。オイルショック。ワシの生まれた年。その結果、お金の価値を担保するものは金ではなくて、信用になった。銀行にお金持って行ってもくれるのは、金ではなく、数字の並んだ通帳というもの。それをみんなが信じているから成り立っているだけのこと、らしい。

今のお金の根拠として、311以降を思えば、エネルギーでしかないと思う。裏付けというかお金=エネルギー。エネルギーは無尽蔵にあるという前提でガンガンお金を刷っているということ。でもその実際のエネルギー源の石油もウランも諸々、いずれは枯渇する。その前に新たな技術で無尽蔵のエネルギーを生み出すシステムを生み出せばいい→原発→プルサーマル。メタンハイドレードが埋まってるらしい、とかね。

いやいや、お金にしろエネルギーにしろ、使わなくてもいいものを使ってるから足りなくなるわけで。それ、時間にも同じ。

佐治先生が仰ってた。生きるとは時間をデザインすることかもしれません。生きるとはエネルギー(お金)の使い方をデザインする、とも言い換えられる。


気難しいと思われている人に限って気楽にいけばうまくいく。気難しいと思ってしまった時点で気楽にいくしかないしね。きっと難しく感じることって、難解である、ややこしい、難易度が高いわけで、でもそれは難しくあろうとしてるわけではないと思う。易いことって、往々にしてズレてるから、そこでいう基準を根拠にいくら説明されても、前提が違う、としか答えようがない。それをキツいと言われてもなんのこっちゃ、ということだろうと。気楽にあちゃーって思わせてくれる人って有り難いと思う。難い。

地上からの景色、見たとして東京タワーレベルの人と、富士山の5合目からの景色を見てる人と、頂上から見た人とでは、見た景色の説明に対しての難易度は違う。頂上の人の景色に共感できるのは同じくそこに立った人でしかあり得ない。想像することはできたとしても、体感がない以上、無理。一方、地上からの目線は生きてりゃみんな当然わかる。そこでのフツーとジョーシキが跋扈する。

5合目って微妙。ここでいいかな、でもまだ上もあるしな、みたいな。ええからゴチャゴチャ言わずに上目指せと。いずれ行かないといけないわけで。

1年500万で生活する人と1日500億回す人の見てる世界は絶対に違う。麻生さんがホテルで飲み食いしてるのとワシが夜中にうどんすすってるのもエネルギー補給という点では同じ。使ってるエネルギーも半端ない分、補給もさぞかし半端なくあるべきで。庶民感覚の首相って。そらスケール小さ過ぎる。スケールが大きいことがいいというわけではないけど、せめて持ってるスケールは最大限に使ってもいいのでは?とも思う。


しなくてもいいことはやめて、すべきことをする。

易い話だと思う。


Sol


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